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CULTURE
Oct 18, 2017
By TORU UKON (Editor in Chief)

昭和のインフルエンサー(1) 荒木一郎(上)

1966年、昭和41年。荒木一郎は22歳。

 

名曲『空に星があるように』を世に送り出した。

 

リリースから50年以上も歌い続けられているこの曲は、荒木一郎の名前を知らなくても多くの人が口づさむことができるだろう。

 

22歳の若者が作詞も作曲も一人で手がけ、歌った。そして大ヒットさせたのだ。

 

荒木一郎以前にそんなことをした日本の歌手はいない。

 

僕は当時、小学校3年生。学校では、同じ年にヒットした『バラが咲いた』(マイク真木)を歌う同級生が多かったが、『空に星があるように』を聴いた僕にはすごく子供っぽい歌のような気がした。また、やはり同じ時期に流行っていた『君といつまでも』(加山雄三)は歌うのも聴くのも恥ずかしいような歌だった。それに比べて『空に星があるように』のなんとクールなことか。

 

それは荒木一郎の歌声に起因しているように思う。

 

昭和歌謡曲にあって、荒木一郎の声は独特だ。フランク永井のような美声ではないし、森進一のようなハスキーでもない。呟くように歌う声は、下手くそのようにも聞こえるが、どこか恥ずかしそうで控えめで、言ってみれば普通だ。歌手と言えば、三国一の歌自慢の中のさらにトップクラスというのが常識だった時代に、普通の人が歌うリアルで等身大の歌が大流行した。22歳の若者が自分の思いままに作って歌ったのだから、普通でリアルで等身大なのは当たり前だが、やはり、これまで日本の歌謡界にはそんな歌手もいなかったし、そんな歌もなかった。

 

ちなみ、昭和41年にヒットを飛ばした加山雄三は慶應、マイク真木と荒木一郎は青山学院。東京の私立の高校を卒業したボンボンだ。3人とも歌のスタイルは違うけれど、これまでの日本の芸能界では生まれてこなかったような、歌謡曲のプロには作れない歌を歌った。そこに新しい時代を感じた。東京の私立のボンボンだけに与えらた才能を、北海道の田舎の小学生はなんとなく感じていた(僕が直接感じたのではなく、3人の歌を等しく好んで聴いていた親戚のお姉さんの受け売りなのかもしれないが)。東京の都立や地方の私立に通っていては到底立てないステージに彼らは立っていた。東京の私立のボンボンというのは、昭和のサブカルの主役になるための絶対条件だったと思っている。

 

その中でも、荒木一郎は群を抜いていた。

 

加山雄三もマイク真木も誰かが書いた詩や曲を歌っていたのだ。荒木一郎は純粋なシンガーソングライター。大谷翔平並みの才能だった。昭和40年代、突出した輝く新しい才能だった。

 

『空に星があるように』でレコード大賞新人賞を獲得した翌年、彼はさらに僕を驚かせるようなヒット曲を放つ。

 

『いとしのマックス』である。

 

「僕の心に たったひとつの 小さな夢がありました」と歌った青年が、

 

「真赤なコートを君に 着せてあげたい君に それが夢なのさ」と歌う。

 

ええっ? あんな内省的な男の夢は、こんなギラギラした剥き出しの愛欲だったの?

 

3年生から4年生になった僕は、初めて「赤ちゃんがどうやって生まれるのか」を知ったときのような驚きを感じ、そこになにやら背徳的だけど甘美な魅力を感じずにはいられなかった。

 

しかも、フォークソングのような優しいメロディから一転、冷めた低いビートのロック。呟くような歌い方は同じだが、見事にリズムにハマっている。余計普通の歌い方がお洒落に聞こえる。僕はジム・モリソンの『ジ・エンド』を初めて聞いたとき、荒木一郎の真似してんのか? と思ったくらいだ。

 

今聴いても「GO!」のフレーズは、最高にクールだと思う。そして、あの時代の日本にあんなにクールな曲があったことを誇らしげに思う。

 

1966~1967年。荒木一郎はたった2曲で、日本の音楽界に天才として名を刻んだ。

 

(下に続く)

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