Dec 31, 2020
By MAMI UKON
伝説のクリエイター、杉山登志を知っていますか?
1960年代。時は『スインギング・ロンドン』の最盛期。政治・経済から映画・音楽とあらゆるフィールドで変革期を迎えていた。ファッションの世界ではユースカルチャーが台頭。若者たちのアヴァンギャルドな精神を象徴するかのように自由で開放的なファッションが流行し始めていた。日本ではカラーテレビの本放送が開始され、ソニーが初のトランジスタテレビ(大きさは8インチ)を発売。ヌーヴェル・ヴァーグが世界のシネマファンを魅了し、大島渚、篠田正浩、吉田喜重らの監督作品が日本のヌーヴェル・ヴァーグと評され映画ファンを虜にした。
そんな時代に日本のテレビコマーシャルの世界に彗星のごとく現れ、旋風を巻き起こしたクリエイターがいる。その男の名は杉山登志。20代前半でCM制作のキャリアをスタート。資生堂がようやくテレビコマーシャルを世に送り出したほぼ出発点から、フィルムディレクターとして参画。キューピー、モービル石油など時代をときめくコマーシャル フィルムを創り続け、国内外のさまざまな賞を受賞し、一躍、時の人に。さらに30代前半の若さでクリエイターなら誰もが憧れるカンヌ国際広告フェスティバルのテレビCM部門で日本初の受賞という快挙も成し遂げた正真正銘のレジェンドだ。
本誌No.032でも特集された杉山という人物をまた別のアングルから見つめてみたい。
エキゾチックな風貌、無口だが説得力があり歌は苦手だが音のセンスはピカイチ。その多彩な芸術的センスは当代随一と謳われた杉山。CMに起用する新しいスターの発掘とその育成にも長けており、部下の素質を引き出す才能は特技と言っても過言ではなかった。独自の才能と美学、ファッション センス、そして人間味溢れる魅力的なキャラクターは、誰もが憧れるヒーロー的存在。しかし、人生には何があるかわからない。テレビCM界の黒澤明と呼ばれ、時代の寵児となった杉山は、クリスマスが間もない1973年の冬の日、足の踏み場もないレコードの山を残し、自らの意思で人生の幕を閉じてしまった。37歳の若き鬼才はなぜキャリアの絶頂期に永遠の旅立ちを選んだのだろう。
衝撃の死から半世紀が過ぎようとしている今。その杉山と資生堂のクリエイティブを通じて切磋琢磨し高め合い、やがて世界を舞台に大活躍したクリエイター、石岡瑛子の壮大な回顧展「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」が東京都現代美術館で開催されている。そして奇しくも10代20代を中心とした若者の間で昭和ブームが巻き起こり、歌謡曲からラジカセまで、昔懐かしいその時代のカルチャーが再び注目される機運にある。そんな興味深い時代を駆け抜けた伝説のクリエイターとはいったいどんな人物だったのか。当時、カメラマンとして杉山がディレクションをした作品の大半を撮影した実弟の杉山傳命氏に伺ったエピソードを交えながら彼の素顔を紐解いていく。
1. インテリアのセンス
居住空間にも彼の美学が垣間見られる。自然光がたっぷりと入る赤坂の高級マンション。リラックス感のある部屋に仕事道具が乱雑に散らばっているが、まるで洋雑誌に出てきそうなオシャレ感が。壁には当時流行っていたアンディ・ウォーホルのポップアートを飾るところが心憎い。赤い背景に色鮮やかな赤いルージュのエリザベス・テーラがこの部屋に不思議なインパクトを与えている。
2. マルチな才能
絵コンテの上手さは天下一品だったという杉山。幼いころから紙と鉛筆さえあれば自画像やさまざまなデッサンに夢中になっていたという。大人になりCMの世界に入ってからも境界線を超えてさまざまな分野でそのシャープな才能を発揮した。自らが演出する資生堂「サマーローション」のCMではその映像にピッタリの作詞を提供(ちなみに作曲は、あの大瀧詠一)。野坂昭如が歌った「黒の舟歌」のレコードジャケットのアートワークも手がけたとか。
3. 酒とタバコ
酒豪として知られた杉山。自宅のキッチンにある食器棚にはウィスキーとトマトスープを常備していた。ウィスキーは「カティサーク」や「ジャックダニエル」の黒。タバコは洋モク。吸っていたのはフランス製の「ジタン」や「マルボロ」。当時、ジタンブルーと呼ばれた粋なパッケージデザインは世界中のお洒落な大人たちの定番(セルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンのお気に入りでもある)。その頃、カメラマン、イラストレーター、編集者たちの溜まり場だった新宿の伝説的なバー『ナジャ』にも足を運んでいた。
4. ファッション
今でいうファッションアイコン的存在だった杉山。カジュアルもドレスアップも自分流に着こなした。Tシャツにジーパンスタイルから洋雑誌からインスパイアされた流行りのスタイルまで幅広く取り入れた。ヒッピーブームの頃は、ロングヘアーにバンダナのスタイルを。急進的な政治組織ブラックパンサー党が話題になっていた頃はそのシンボル的アイテムだった黒のタートルネックを愛用。またジャン=ポール・ベルモンドを思わせるキャスケット帽、マキシ丈のコートまで自由気ままにおしゃれを楽しんだ。ある夜、新宿の街で、スキニーな身体にマキシ丈のコートをなびかせ、若者数人をしたがえて風のように颯爽と歩いていたという目撃談も。ちなみに車は、赤のワーゲンポルシェ 917 S。
5. 刺激的な交友関係
互いの才能と魂が共鳴し合うような幅広い交友関係も見事だ。ウィットに富んだ作風と深みのある人間性に惹かれ、師と仰いだ画家の永田力。資生堂の仕事を通して切磋琢磨したアートディレクターの石岡瑛子とは戦友であり親友でもあった。そしてイラストレーターの和田誠とは、互いの仕事やその人間性にシンパシーを覚えていたという。エレガントな女性のスタイリングに定評のあったスタイリストの徳丸真代とは数多のCMを通して確かな信頼関係を構築。当時、パルコや資生堂の広告で時代を牽引したカメラマンの横須賀功光は彼が亡くなった後、「杉山登志は、僕の言葉だった」と表した。エキサイティングな時代をリードし、後世に残る作品を創り出した表現者たちの才能がスパークし合う関係は刺激的だ。
6. 最後に聴いていたレコード
勉強家でメモ魔だった杉山。彼の手帳は無差別に集められたミュージシャンのリストで埋め尽くされていたという。幅広いジャンルの音楽をこよなく愛する彼が、永遠の旅立ちの前によく聴いていたのがヘレン・レディのアルバム『長くつらい登り道-Long Hard Climb』。長くつらい旅だったでしょうねというニュアンスの歌詞ではじまる曲だ。この歌を繰り返し聴いていたという彼の心境はいったいどんなものだったのだろう。一見独裁者的なワガママ男のように見えて、実際にはスタッフ全員に対する繊細な気づかいがあったという杉山。華やかな人生の裏側には人には窺い知れない苦悩があったのだろうか。もしそうだったとしても彼流のやさしさで自らの胸のうちに秘めておこうと思ったのだろうか….。希代のクリエイターの突然の死は、約50年経った今もなお謎に包まれたままである。時代は移ろいゆくが、彼の遺した映像は今見ても遊び心に富んだフレッシュな驚きに満ちている。
Special Thanks_Denmei Sugiyama
*参考文献
『CMにチャンネルを合わせた日 杉山登志の時代』
(馬場啓一 + 石岡瑛子 編 / PARCO出版局)