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FASHION
Jul 15, 2021
By THEM MAGAZINE

《キディル》末安弘明、服作りに注ぐPUNKの心魂|前編

異国の地ロンドンに単身渡り、独学で服作りを始め、ファッションデザイナーとなった末安弘明。フリーマーケットで購入した洋服をリメイクすることから始めた彼は今、東京、パリを舞台にショーを行い、世界に向けて発信している。なぜ服作りを始めて、どのように学んでいたのか。あまり語れることのなかった末安氏のバックボーンと2022SSコレクションについて前後編で迫る。

 

岡本太郎に触発されてロンドンへ

 

ーー今回は末安さんのバックグラウンドについて迫りたいと思っております。

さっそくですが末安さんの少年時代についてお聞かせください。

 

生まれ育ったのは福岡県久留米市です。物心がつく前から高校まで書道を毎日やっていました。だけど、高校生になると音楽カルチャーに興味が湧いてきて、それと同時に書道はやめてしまった。友人や先輩とクラブに通い始めてレコード屋さんにも通うようになり、その中で、今も自分の中心となっているパンクに出会いました。当時の福岡にはレコード屋さんが沢山あって、チェッカーズやシーナ&ザ・ロケッツとか、ロックミュージシャンを多く輩出している都市だったんです。それと、地元にある一軒のセレクトショップに通い始めてから、服が好きになっていた。その当時はただただ、服が好きでした。

 

 

ーーファッションデザイナーになる以前は、ヘアスタイリストをされていましたね。高校時代から洋服が好きだったということですが、そこからヘアスタイリストを目指されたのなぜですか?

 

高校生の時からファッションの道に進みたかったんです。でも、親が手に職をつけるような仕事でないと進学させてくれなかった。だから、ファッションの道は諦めて美容師の道を選びました。美容師はカッコいい人たちが多かったし、当時はそれでも良いかなと思っていました。

 

 

ーー単身ロンドンへ渡り、独学で服作りをされていましたね。美容師になってから、なぜロンドンへ行ったのでしょうか?

 

美容学校を卒業して、原宿の美容室で5年程働いていたある日、ふと生きている実感が持てなくなってしまった。その時に岡本太郎の「今日の芸術」という本に出会いました。その本が今まで忘れていた感覚や感性を思い出させてくれて、次の日には勤めていた美容室に辞表を持って行ってた。勿論、辞めさせてくれませんでしたが(笑)。そこからさらに岡本太郎の本を読み漁った。「人生はキミ自身が決意し、貫くしかないんだよ。人間にとっての成功とは、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか」という、岡本太郎の生き方や思想にどんどん感化されていった。それが居心地の良い東京にこのまま住むのではなく、誰も知り合いのいない、言葉も通じない国へ行きたいという気持ちに変わっていった。イギリスのファッションやカルチャーが好きだったからロンドンを選びましたが、英語は喋れない。喋れない問題よりも、とにかく東京をすぐに出て、自分一人の力で何かを生み出したかった。だから、何も目的もないままロンドンに移り住みました。

渡英していた当時の部屋で、自身でリメイクしたアイテムを纏う末安弘明氏

異国の地で始めた服作り

 

ーーロンドンではヘアメイクの仕事をされていましたね。そこから服作りを始めたきっかけはなんだったのでしょうか?

 

仕事でロンドンコレクションに携わったことが、服作りを始めるきっかけでした。ロンドンへ渡った当初は現地で美容師をやっていて、そこから徐々にファッション誌やショーのヘアメイクの仕事を手掛けるようになっていました。ロンドンコレクションの仕事の中で服に触れていくうちに、次第に自分でも作ってみたいと思うようになっていましたね。だけど、お金もなくてパターンも引けない。知識がなにもなかったので選択肢がリメイクしかなかった。フリーマーケットで買ったTシャツやリーバイスのデニムを自分なりに改造したことが、最初の服作りでした。

 

 

ーー自分自身が着たいものを制作されていたのでしょうか?

 

いや、そうではなかったですね。勿論、作った服を自分自身で着ていましたが、自分の中から強烈な何かを生み出したいという理由で服を作っていましたね。それが、当時の僕の服作りのテーマでした。誰かの下に師事するわけでも、どこかでアシスタントをしていたわけでもありませんでしたからね。

 

 

ーーそこからどのようにして洋服の仕立てやパターンなどのことを学ばれていたのですか?

 

買ってきた服をパーツで解体することから学んでいました。すべて糸を外してパーツにして並べ、その状態で実際にパターンを引き、ポケットの作り方や襟芯を入れることを肌で覚えた。それをまた縫い上げる。そうやって洋服の作りと縫い方を習得しましたね。当時は、本当にお金がなくて治験に行って服や道具を揃えていました(笑)。ロンドンからバスに詰め込まれて、郊外の研究施設に2週間くらい隔離されてましたね(笑)。そうやって何回も治験に行きながら服を作っていたので、その当時は、友人やファッションジャーナリスト達から「身を削ってやってんだからアンタ絶対に売れなさいよ」と言われてましたよ。だから、僕が作る服は血と汗の結晶でできていると言っても過言ではないですね。

ロンドンで行ったショーと展示会での様子

 

ーーブランドを立ち上げるきっかけとなったのは?

 

当時、一緒に暮らしていた友人や仲間とショーと展示会をやったんです。誰もショーなんてやったことがなかったし、展示会も一体どうしたらいいのかわからないことばかりでした。とにかく自分の想いを服に詰め込んで徹底的にやってやろうと考えてました。意外にも日本のバイヤーの方が沢山来てくれて、その中で、ロンドンの「THE PINEAL EYE」と、原宿の「FACTORY」というセレクトショップが僕の服を買ってくれたんです。今はどちらのショップもありませんが、凄くカッコ良いセレクトショップでした。それが趣味の延長だった服作りから、 ブランドとして服を作っていくきっかけとなりました。それがなかったら、前身となる《ヒロ》はブランドとしてやってなかったと思います。

 

 

ーーそこからファッションデザイナーとしてのキャリアが始まったのですね。

 

そうですね。ロンドンで呼ばれていた当時のあだ名だった《ヒロ》をブランド名に始めました。ロンドンで服作りを始めた記念として行った一度だけの展示会のつもりが、そこから10年程《ヒロ》をやっていましたからね。その一度のおかげで、こうして今の自分があるので本当に展示会をやって良かったと思っています。

2014AW 初の東京コレクション参加時のバックステージでの様子
末安弘明

1976年福岡出身。96年に大村美容ファッション専門学校を卒業。02年に渡英し、独学で服作りを始める。04年にロンドンで《ヒロ》を立ち上げる。14年に《キディル》として再スタートし、東京コレクションに参加。17年に「TOKYO新人デザイナーファッション大賞」東京都知事賞を受賞し、発表の場を東京からパリへと移す。2021FWよりパリファッションウィークの公式スケジュールにて発表を行う。

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