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FASHION
Jan 22, 2026
By THEM MAGAZINE

Interview with SHUZO MATSUHASHI: Part1.

2026年春夏シーズンで始動した《シュウゾウ マツハシ》。多摩美術大学テキスタイルデザイン専攻、イギリスのチェルシー・カレッジ・オブ・アーツ、ウィーン応用美術大学を経て、《ロエベ》のニットウエアデザインチームの一員として活動した松橋脩造が立ち上げたブランドだ。“生活者の服”“衣服と身体の関係”をコンセプトに据え、ワークウェアや介護服といった生活に根付いた衣服、日常的な動作からインスピレーションを得たデザインを生み出している。

 

“Non-conscious Fashion(無意識のファッション)”をテーマとしたファーストシーズンでは、キッチンペーパーの柄を落とし込んだトップスや、タオルを肩に掛けたときのシルエットを表現したコート、胸元がカットされたニットなどを展開。着用者の日常的な動作や生活に根ざしたファッションを追求する松橋のアティチュードが反映されたコレクションを披露した。

今回、日本を生産拠点とし、南仏と行き来しながらブランドを手がける松橋の帰国に合わせてインタビューを実施。松橋本人と、取り扱い店のひとつである「ランド オブ トゥモロー」のスタッフ・川崎逸男へのインタビューによる前後編から、《シュウゾウ マツハシ》というブランドに込められた想いを探る。

 

Part1. Interview with SHUZO MATSUHASHI / SHUZO MATSUHASHI Designer

 

―まずは経歴について教えてください。多摩美術大学のテキスタイルを専攻していましたが、当時はファッションを仕事にしようと思っていなかったそうですね。

 

そうなんです。多摩美への入学も「ものづくりをするなら美大のほうが真面目に取り組めそうだな」と思っていたくらいでした。入学してからも特に決めておらず、何かに特化して勉強したいけど、幅も残しておきたいという理由でテキスタイルを選んだんです。テキスタイルだったらファッションだけでなくインテリアもできるし、日常のいたるところで目にするので。

 

―そこからファッションに興味を持つようになったのはなぜでしょうか?

 

2年次にファッションコース、インテリアコース、アートコースに分かれるタイミングがあって、その少し前にテキスタイル科の先輩が働いていた《ヤントル》というブランドに連れて行ってもらったことがあったんです。当時はファッションのことを何も知らなかったのですが、紹介されたデザイナーの坂倉(弘祐)さんと吉田(賢介)さんの2人がすごく面白くて。僕自身は服にハマっていたわけでは全然ないんですけど、興味を持つようになり《ヤントル》でアシスタントとしてお手伝いすることになりました。それが一番大きなきっかけですね。

 

 

―《ヤントル》での経験で印象に残っていることを教えてください。

 

すべての経験が印象に残っていますね。当時は服の作り方をまったく分かっていなくて、生地を服の(パーツの)形に切ることも初めてやったくらいでした。何も知らなかったけどとにかく楽しかったんですよね。デザイナーの2人が武蔵野美術大学出身だったのでアートをやっている友人も多かったり、最近だとタイのビエンナーレでコレクションを発表したりとか、ファッションの文脈からちょっとずれているけど、それを貫いている感じがあって。そういった姿勢にはすごく憧れました。

 

 

―ロンドンへの留学経験もあるそうですね。

 

チェルシー・カレッジ・オブ・アーツのテキスタイル科に交換留学で行ったんです。多摩美ではずっと、糸を染めて手織りで生地を作るということをやっていたのですが、チェルシーでもそれを続けていましたね。

 

―多摩美を卒業した後は、どのような活動を?

 

卒業してからは1年半ほど日本で働いていました。せっかく働ける機会をいただけたので、予定していたセントラル・セント・マーチンズの入学を延期し、自身の制作をしつつ、《ヤントル》で働いたり、日本の某コレクションブランドのドレスを作るバイトをしていました。その後ウィーンに行きました。

 

―ウィーン応用美術大学を選んだ理由は?

 

最初はセントラル・セント・マーチンズに行こうと思っていたんです。ところが「マルタン・マルジェラがウィーンの学校で教えるらしい」という噂を聞いて。カール・ラガーフェルドとかヘルムート・ラング、ラフ・シモンズといった有名なデザイナーたちが教えていた学校でもあったので。実際に受験したときはフセイン・チャラヤンが先生で、マルジェラというのはデマだったのですが(笑)。当時、ウィーン応用美術大学は現地に行かないと受験できず、実際に行ってしまったので「一応受けるか」といった軽い気持ちだったんです。試験も何日もかかる長いもので、正直なところセントマーチン行きたいなって思っていたんですけど、試験自体は楽しく、フセインと話せたのも嬉しかった。合格をもらってから「ウィーンで学ぶのもありかもな」と思うようになりました。人数もすごく少なくて、僕の年は8人、その次は5人、その次は2人だったんです。設備もちゃんとしていて、学費も安かった。多摩美の先生から「みんなロンドン行くんだから、違うところ行け」って言われていたのもあって、ウィーンにしました。

 

―印象に残っている出来事は?

 

受験で取り組んだ課題ですね。ピンとシーチングだけで襟を作る課題があったんですけど、他の受験生がピンを無数に使った襟を作っていて。ピンを布を留めるものじゃなくて、デザインとして使う発想に衝撃を受けました。「ここにいる人たちって面白いな」と。ウィーンで学べば、新しい世界が見られそうだなと思った理由のひとつですね。

 

―入学後、どんな先生に教わりましたか?

 

《ジルサンダー》を手がけていたルーシー&ルーク・メイヤーが最初の先生でした。彼らのやり方は“ミリタリー”や“アレキサンダー・マックィーン”など、毎月異なるテーマの課題が与えられるんです。それに対してリサーチして、スタイリングを組んだりレポートを書いたり。実際には作らなくても、テキスタイルなどリサーチしたものを見せて進めていく感じです。ルークはマッシモ・オスティの『IDEAS FROM MASSIMO OSTI』など、「これ好きだと思うから見てみたら?」と書籍などをよく勧めてくれました。もともとそこまで知識があるほうではなかったのですが、勧められていくうちにリサーチが楽しくなり、図書館に通い詰めるようになりました。ルークたちのおかげで、自分の興味に対する視野が広がったと思います。彼らは一年で辞めてしまい、次はウェールズ・ボナーが教鞭に立つことになりました。ウィーン応用美術大学では先生の決め方も特殊で、何人かの教授候補がそれぞれプレゼンして、生徒と在籍している先生の投票によって決まるんです。僕が2年次のときには、何人かの候補からウェールズが選ばれて。彼女はアカデミックリサーチといって、読書やライティングを中心としたやり方で教わりました。彼女は一貫して「自分がどんな文脈でファッションをやるか」「あなたのファッションにはどんな意味があるか」を重要視していて、そこで学んだリサーチは自分のものづくりの核になっていると思いますね。

 

―最終的に、ウィーンには何年いましたか?

 

4年いたのですが、実は卒業していないんです。4年次にショー形式でコレクションを発表した後に《ロエベ》にインターンとして入ったんです。

 

―なぜ《ロエベ》だったのでしょう?

 

一番興味があるメゾンだったからですね。ジョナサン(・アンダーソン)が手がけていて、特に僕が入る直前の《ロエベ》がすごく好きで。留学するなら一度は大きいメゾンに入ってみたいというのもありました。あとはオファーをもらう前、ニットチームのヘッドデザイナーとのインタビューで、ディレクションはほとんどないから自由にやれると聞いたことも大きな理由でした。

 

―《ロエベ》で働いたことで、意識は変わりましたか?

 

ブランドを始めるきっかけにはなったかもしれません。周りからも「別に学校戻らなくていいんじゃない?」と言われたり、学校も生徒数が増えたことでアトリエが混んできたので、「もう学ぶことは学んだかな」と思い退学しました。《ヤントル》にいたころから自分でブランドをやりたい気持ちはありましたが、ずっと自分自身のスタイルやものづくりに自信を持ちきれないところがあったんです。強い自信を持てるようになってからブランドを始めたいと考えていたけど、いくら賞をもらって、いいチームでデザインができても、作品は満足できるところにいけない、まだダサいみたいな感覚がなくなることはないのかなと気づくきっかけになりました。だからもう過程もさらけだすつもりで、ブランドを始めることにしたんです。

―そうして設立した《シュウゾウ マツハシ》のコンセプトは、どのように構築していったのでしょうか?

 

ウィーンでやっていたアカデミックリサーチですね。ドローイングやドレープだけじゃなくて、本を読んだり書くことで「ファッションをどのような文脈で行うのか」を考えました。民藝の思想から「オーディナリー・ピープルズ・クラフト」という考え方を知って、「生活者のファッション」とは何かを考えるようになりました。民藝の考え方を調べていくなかで、民藝以外にも、イギリスのアーツ・アンド・クラフツとか、ウィーンだとウィンナー・ワークシュテッテ(編集部注:1903年に設立され、モダンデザインの先駆けとして知られるオーストリアのデザイン工房)とか、民藝運動の後に出てくるヨーロッパのクラフト運動もリサーチしていました。そういった運動から派生した服を見るとレースや刺繍がすごく装飾的なものが多いんですよね。でもそれって、実際に日常着として着られないのでは?という疑問が出てきたんです。民藝の哲学に沿っているかというと、僕の感覚ではちょっと違うなと感じました。クラフトの技術を使って装飾すること自体が目的になってしまうと、本当の意味での民藝とはズレる気がしていました。むしろ普段着ている下着やワークウエアのほうが生活に根差しているし、哲学的にも近いんじゃないかと思ったんです。ウィーンにいたときから民藝とファッションをどう結びつけるかを考えていて、テキスタイル科でずっと手織りをやっていたこともあり、クラフトやマテリアルへの関心はずっとありました。ロンドンでは学科関係なくセラミックもできたので、テキスタイルとセラミックを混ぜた作品を作ったりもしていましたね。

―「オーディナリー・ピープルズ・ファッション」という考え方についてもう少し教えてもらえますか?

 

民藝がフォークアートと訳されることが多いなかで、「オーディナリー・ピープルズ・クラフト」みたいな訳を見て、すごくしっくりきたんです。普通の人が、普通に使うもの。そこから「オーディナリー・ピープルズ・ファッションって何だろう?」と考えるようになりました。意識してかっこつける服より、無意識の中に出てくる癖や動作といったものにリアリティを感じたんです。

 

―具体的には?

 

人って、なんでみんな同じことやっちゃうんだろう、みたいなところですね。例えば、端っこに物を寄せて置いちゃうとか、余白があったら埋めたくなるとか。そういう人間の癖が見えるのが面白くて。服も同じで、身頃が大きかったら「じゃあポケットも大きく付けちゃうよな」とか、そういう発想が自然に出てくる。その自然さを排除しないで形にしたいと思っています。

―ワークウエア的な発想とも近い?

 

近いですね。ただ、ワークウエアをそのままやりたいわけではないんです。学校でもすごく言われました。「ワークウエアが好きなのは分かったけど、お前がやりたいのはファッションでしょ?」って。ワークウエアはベースとして大事だけど、ファッションとしてやるなら、身体との関係、ボリューム、プロポーションをちゃんと考えないと意味がないんです。とくにファッションをやる以上、身体と関係は切り離せないです。どこにボリュームがあって、どう動くのか。そこは絶対に外せないところだと思っています。

 

―既存要素をベースに?

 

そうですね。完全にゼロから不思議なものを作るというより、ベースがあって、それをどう変えていくか。みんなが知っているイメージを、ひとつのアイデアで全然違う印象に変える、というほうに興味があります。ワークウエアがベースとしても、ステッチの運針を少し変えることで装飾的に見えたり、ボリュームを変えるだけで印象が変わる。ゼロから変なものを作るより、知っているもののイメージを変えることに興味がありますね。

 

―今後、ブランドをどうしていきたいですか?

 

正直なところゴールは見えてないです。ブランドとしてどうしたいみたいなのも、はっきりとはなくて。ひとつ言えるとしたら、服作りをやめたくない。極端な話、着る人がいなかったとしても、制作は続けていきたいですね。コレクションブランドのように決まったサイクルでコレクションを出し続けるというより、いいものができたらその都度発表するくらいのような気持ちでできればいいなと思っています。

 

Part2 に続く。

 

SHUZO MATSUHASHI

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