Jul 27, 2020
By THEM MAGAZINE
山岸慎平、《ベッドフォード》の10年目に語る|前編
PHOTOGRAPHY_KOICHIRO IWAMOTO.
TEXT_TATSUYA YAMAGUCHI.
《ベッド・フォード》のウェブサイトには、ウィリアム・アーネスト・ヘンリーの一編の詩が載っている。「私が我が運命の支配者で、我が魂の求道者(captain)なのだ」という。アパートの一室から服づくりをはじめ、東京、フィレンツェ、ミラノ、そしてパリを舞台にショーを発表し、今年でブランド設立10周年を迎えたデザイナー、山岸慎平は、ヘンリーの詩が綴るように、インベクタス(不屈)な精神で自身の美学に従い続けようとするものだった。これまで多くを語ってこなかった彼との2時間におよぶ対話を前後編で。
少年時代、「わからない」こととの摩擦
——10周年、おめでとうございます。まずは、あまりインタビューで見たことのない、少年時代まで時間を巻き戻したいのですが、どのような少年でしたか?
生まれ育ったのは、石川県の漁師街です。幼少期はわりと無気力で、いわゆる、将来の夢もなかったですよ。中学、高校生のころからは田舎で生活していることがたまらなく嫌だった。友達もいるし、兄弟とも仲がいい。ストレスが溜まる毎日ではないけど、この先もずっとこの場所にいることがまったく想像できないでいた。何かの理由をつけてここから逃げ出したい、そんなことばかり考えていましたね。
——当時はファッションデザイナーの道も想像すらしていなかったそうですが、ファッションはどのようなきっかけで好きになったんですか?
ファッションに目覚めたのは、間違いなくファッション雑誌のおかげですね。上からまわってくる『Boom』からコレクションマガジンまで片っ端から読んでいました。「流行りの、この服が欲しい」という見方は皆無で、ファッション誌の中にある“世界”を覗き込むことに夢中だった。いわゆる“都会的なもの”が一緒くたになっていた僕にとって手っ取り早く都会を感じられる方法で、ハイエンドなファッション、ストリート、東京だとかのカテゴライズなんてないまま、全部ひっくるめて自分が生きている世界には存在しなかったから。ファッションから音楽や映画を教えてもらっていたし、心の底から憧れていました。高校生くらいになると、ファッションからカルチャーを知る、という順序が逆転するタイミングもあった。カナダのレーベルの「anticon.」の世界が面白い。雑誌で発見して、「あぁ、みんな《リーコン》を着てるんだ」って知って自分も着たくなる、だとか。音楽の影響も大きくなってきていて、シスレコードから月イチで届くオーダー用のFAXが面白いんだけど、視聴もできないから名前や写真がなんとなくかっこ良いものをチェックして購入したり。するとね、たいていハズレたりして(笑)。それも込みで、都会を側に感じられていたんだと思います。
——昨今のようにインターネットを介して目当ての情報にたどり着くことができませんし。ハズレでも何度もFAXを返信し続けたのは、なぜですか?
失敗しても、時間が経つと、「あれ? 面白いんじゃないか?」に変わる瞬間があることに気づくんです。今になって都合よく考えれば、僕自身が、自分にとって“都合の良いもの”だけで形成されてこなかったことを、ありがたいことだなと思います。
——その、変わる瞬間、都合の良いものとは?
レコードを買うことも、おっかなびっくりで金沢のクラブに行ったのも、要は、ファッション誌の“世界”の住人の真似事みたいなことだったんでしょうね。最初は、思い返せば、ファッション、カルチャーそのものを追いかけていたわけじゃない。タワーレコードにあった海外のファッション誌で、服じゃなくてモデルの顔だけのページがあったんですが、僕が知る限り当時の日本の雑誌にはないページだったし、とにかく理解に苦しんだんですよ。一方で、「これをわからない自分はイケてない。イケてる連中はこの良さがわかるんだ」っていう寂しさが湧いてくる、田舎コンプレックスが根っこにあった。憧れの高橋盾さんがピストルズをかっこいい、宮下さんはニルバーナを良いと言うけど、自分には「わからない」。「わからない」という“都合の良くないもの”との摩擦だらけだった。これは自分に対する洗脳なのかもしれないけど、そういう都合の悪いものをなんとか理解しようとよくわからない考えで、自分の中に取り込んでいく作業を、田舎の隅っこで繰り返していた。
——そうした経験を経て、山岸さんがかっこいいと思う人や物が集結している東京に行きたい。その一心で、高校3年の秋に上京し、まず古着屋で勤めることになったんですね。
それだけで突き進んできましたから、町田にあるビンテージショップで当時はすごくかっこよかった。何も考えないまま東京に来たもんだから、どうやら家賃と光熱費というものが毎月かかるということを初めて知る(笑)。リーバイスのビンテージが買えるわけもなく、憧れの雑誌の世界とはまるでイコールではなかったけど、とりあえず田舎ではなく東京にいることが本当に嬉しかった。
そして、《ベッドフォード》立ち上げへ
——その後、《ジェネラルリサーチ(現:リサーチ)》で経験を積み、いわゆる服飾の専門学校で勉強をしてきたわけではない。ご自身のデザイナーとしてのアティチュードはどのように形づくられていったのですか?
僕は、《コム・デ・ギャルソン》を卒業したり、《ヨウジヤマモト》で型紙をひいてきたりした人たちを本当にすごいと思っているし、すべてのパタンナーを尊敬していますしね。じゃ、服をつくる身として自分は何ができるのかと考えると、誰よりも素直に「わからないことをわからない」とする態度を貫くことだけしかないんです。
——「わからない」ことに一喜一憂していた学生時代とも似ているのですか?
うん。最近、よくそう思いますね。当時の、理解しようとする作業。今の、教えてもらう時間。どこか似てるんです。ハードルの高いなぞなぞを作って、なぞなぞの答えを人に聞く感覚。わからない。助けてほしい。それがめちゃくちゃ楽しい。服をつくり続けるにあたって、お金と時間をどれだけかけても、尊敬するプロフェッショナルな人達たちがしてきた努力や経験をしていない分、絶対に知ったかぶりなんてできない。例えば、生地を作るなら尾州にある工場に張り付き、機屋で作業をしている方々のところに行っては「どうやったらこうなるのか?」を聞く、教えてもらってもわからなければわかるまで聞くし、見学させてもらう。自分の中に「わからない」ことを常にセットしておくことが、唯一、すごい人達のいる世界に足を踏み入れられる方法だと思うんです。そうしたことを積み重ね、数珠つなぎのように編集してつくるのが僕のやり方。ルーツが自分の思春期にあるんじゃ、これは、もう一生変わらないと思いますね。時には田舎にいたころや若いときのことを自分自身で振り返るのもよいですね(笑)
——自分の志向や心の機微に、とことん素直なクリエーションですね。
素直でいることには心がけています。思春期のころの話に戻りますけど、ブランキージェットシティがずっと好きだったけどベンジーみたいになりたいとはカケラも思わなかった……いや、思いつかなかったのかな。ベンジーのようにかっこよくありたかったけど、楽器を弾くだけの気力は無いというか、ともかく、「誰かのようになりたい」と思ったのは、宮下貴裕さんが最初なんです。顔も見たこともないときに。ただ作っているものや空気のような物を通してそう感じていたんだと思います。憧れるなーと。ですが結局、僕は、僕にしかなれない。宮下さんのようなデザインなんて思いつかんし、どうやら僕にはその才はない。それに気付いたなら、考え、悩み、学び続けるしかない。僕の持論で、デザインは学問であり、知恵だと思ってる。それが、憧れた場所にいるための唯一の術なんだと感じています。
——2010年に《ベッドフォード》をスタートさせ、2011年春夏で初のコレクションを披露されました。立ち上げの際のスタッフは何名で、アトリエはどこに構えたのですか?
僕と代表の2名で、代々木上原の彼の自宅。1LDKのオンボロアパートの一階で、企画から服づくりまでやっていました。スタイリストさんのリースはキッチンで。家の隣に小綺麗な駐車場があるから、ゴザを敷いてラックを並べて展示会をしてみたり。もちろん真剣にやってきたけど、形になるまでは時間がかかりましたね。何度も繰り返しますが、やっぱり「わからない」ことが嫌だった。使いたい生地がない、色がない。じゃあ、つくるしかない。だけど、どうやってつくればいいのかわからない。それなら、知っている人達に聞きに行こう、と。自分が憧れ続けてきたものや、吸収してきたこと、つくりたい服じゃないことをやるくらいなら潰れてもいいとか思いたかったのかも。ファーストシーズンに先輩でもある《ブラックミーンズ》につくってもらったレザーが売れたか? まあ、売れませんでしたよ。でも僕には金額では片付けられない大事な1着です。憧れた世界がその1着には確かにありましたから、僕にとって重要なのはそういったことなんです。色々と思い出したくもないこともたくさんあるけど、こういうことの連続で、少しずつブランドの顔や表情ができていったのかなと思っています。
――ブランドをスタートする際に理念やコンセプトのようなものはあったのですか?
最初も今も、「ナルシスト」というワードはあります。記憶の中にずっとある、あの“世界”の住人たちのように、美学を持ったかっこいい何かになれたらいい。それがつくる物を通して僕自身がまずかっこいいと思えるものを作ろうというシンプルなところに直結したんだと思います。
——ブランドとして、そういったナルシズムを突き通すことに迷いや恐れはありますか?
幼稚な考えかもしれないし、偉そうなんですけど、僕は誰かのためでなく自分のために服をつくっているんです。もちろん、着る人に良さが伝わって欲しいし、賛同してくれる人がいたら何よりも嬉しいですが、共感を強いることは絶対にしたくない。つくる服に責任を負う意味もあります。「なんでこういう仕立てにしたのか?」と聞かれたら、「僕は自分が着る上でこうしたい。だから、こう作ってるんだ」と言うし、間違っても「なんとなく」や「流行っていて求められるから」なんて言いたくない。自分自身も思いたくない。10年間、譲らなかった部分が、今ようやくですが自分の骨格のようになってきているんです。
インタビュー後編は後日公開
石川県出身。上京後、東京の古着屋を経験し、《ジェネラルリサーチ》に勤める。2010年7月、現在は代表を務める高坂圭輔と共に、株式会社バースリーを設立し、《ベッドフォード》をスタート。2011年春夏から展示会形式でコレクションを発表。2017年春夏シーズンの東京ファッションウィークに初参加し、ランウェイショーを開催。東京都が主催するTokyo Fashion Award 2017を受賞し、同賞のサポートプログラムとしてパリで開かれるshowroom.tokyoに、2017年秋冬から2シーズン参加。2018年6月、イタリア・フィレンツェで行われるピッティ・イマージネの招待デザイナーとしてランウェイショーを開催。翌シーズンから2シーズン、ミラノ・ファッションウィークに参加。2020年1月には、《メゾンミハラヤスヒロ》のショー中にゲリラ的に参加し、パリでコレクションを発表した。2021年春夏の発表で、10周年を迎えた。
Edit_Ko Ueoka.